定期大会&野菜市&AAF café vol.3(上田假奈代、蔭山ヅル、ス
ばたばたとしていたので、頭は痛いわ、唇には散弾銃(オカキョンねた)ちがったヘルペスだわ、肩と背中と首と目も痛いわと、つらいです。
インディユニオン定期大会@連合東京はのべ21名の参加で、闘争方法の違いとはいえ、わたしたちフリーランスの闘い方はケース・バイ・ケース。そこに議論を重ねていくことこそがわたしたちの手法ではないかと思った。
自由と生存の家野菜市は、60〜70名くらいはいらっしゃったのでしょうか。でも、売り上げはイマイチ。第1回目は赤字覚悟とはいえ、道は険しいだからこそ、工夫の余地もある。やってみなければ、反省して改善することもできない。動いて初めてわかることってたくさんある。継続は力なり? 今日電車の中吊りで見出ししか見えなかったが、「成功して終わるのはありだが、失敗して終わりにしてはだめ」みたいなのがあって納得。
今夜は頭痛をおして以下へ。
http://www.asahi-artfes.net/news/announce/
AAF café vol.3
11月9日(月)open-19:00 start-19:30
【会場】アサヒ・アートスクエア(アサヒスーパードライホール4F)
東京都墨田区吾妻橋1-23-1
【入場料】無料 ※ワンドリンクフリー【スピーカー】
上田假奈代(NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)代表╱大阪市立大学都市研究プラザ研究員╱詩人)
蔭山ヅル、スズキクリ(ART LAB OVA)【コーディネーター】 芹沢高志
【プロフィール】
◎上田假奈代╱詩人・詩業家
1969年生まれ。3歳より詩作、17歳から朗読をはじめる。92年から障がいをもつ人や若者など幅広い対象への詩のワークショップを手がける。01年「詩業家宣言」を行い全国で活動。03年新世界フェスティバルゲートでココルームをたちあげ、仕事、自律、自治などをテーマにアートと社会の関わりをさぐる。NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)代表。カマン!メディアセンターを運営。大阪市立大学都市研究プラザ研究員
サイトhttp://www.kanayo-net.com
ブログ「日々。生きる現代文学」http://booksarch.exblog.jp/◎スズキクリ/音楽家
東京巣鴨出身。横浜野毛在住。演奏や作曲活動のほか、ヴィジュアル・アートや演劇、ポエトリーリーディング、最近では手塚夏子、捩子ぴじん等、ダンスとのコラボレーションも多数。1996年よりART LAB OVAとしても活動している。
◎蔭山ヅル╱アーティスト
横浜出身。美術大学を卒業後、欧州、アフリカ、東南アジアを放浪。1992年ころより自身の制作発表とアートプロジェクトを開始。96年よりART LAB OVAとして活動している。
(ART LAB OVA アートラボ・オーバ)
アーティスト・ランの非営利団体として、13坪のアートセンターを拠点に、映画館やスナック、商店街、動物園、福祉施設、学校など、まちの狭間で「場」や「出来事」を通じて「関わり」を探るアートプロジェクトを展開している。
サイトhttp://artlabova.org
※AAFサイトでのロング・インタビュー記事
http://www.asahi-artfes.net/news/2009/10/art-lab-ova-1.html◎芹沢高志
1951年東京生まれ。1989年、P3 art and environment (http://www.p3.org/)を設立。現代美術、環境計画を中心に、数多くのプロジェクトを展開。アサヒ・アート・フェスティバル事務局長(2002-)、「デメーテル」総合ディレクター (2002)、「横浜トリエンナーレ2005」キュレーター(2005)、別府現代芸術フェスティバル2009「混浴温泉世界」総合ディレクター(2009)、著書に「月面からの眺め」(毎日新聞社)など。【ご予約・お問い合わせ】
アサヒ・アート・フェスティバル実行委員会 事務局
釜ヶ崎や寿町の野宿労働者や、自閉症児などにかかわりながら表現活動をおこなうアーティストたち。彼女や彼らの表現に対する哲学のようなものは、とてもしっくりくる。だから、もう少しで見えそうだった。ずっと次の表現を探している。表現することは生きること。「生」が濃い場所。人と自分との間に自分というものが立ち上がり、それが宇宙までつづくということ。やはりそこからわたしは表現について考えたい。
その後、大好きな「つくし」でもんじゃ&お好み焼き。
「生きづらさ」
「生きづらさ」という言葉が浸透したことはよいことだと思うが、表現が一般化されすぎると、こういってしまえばわかったような気になってしまうものだ。
だが、本当は、「生きづらさ」が煮詰まってどうしようもなくなってしまえば、こんなことにもなるのだと、65歳の妻を殺害した夫についての報道を読んで思った。この妻は本人に頼まれて筋萎性側索硬化症(ALS)の長男を殺害して執行猶予つきの有罪判決を受けていたようで、この妻もまた夫に同様のことを懇願した。そして2人は心中を考えたが夫は逮捕・送検され、「もう少し自分が妻を励ませばよかった」と語っているという。
「生きづらさ」に苦しんでも死ぬのも苦しいので、消えてしまいたいと思うと語る多くの人に会ってきた。わたしもまた10代の頃、「こいつを殺して自分も死ぬ」という決意は小さなきっかけさえあれば実行しただろうと考えてきた。それは、ただ重たい話を互いにできるほどの限られた特別の友情だとか、馬鹿話を延々とつづけられる友情だとか、集中できるまったく別の行動・行為などによって救われてきたのだ。
ALSの有病率は10万人に5人程度で、難病に指定されており、発症後3〜5年で半数が死に至るようだ。
それでも人はそのときまで生き、息子を殺害してなお母は生き、妻を殺してなお夫は生きなければならない、それはいったいなぜなんだろう。それとも死んでもいいのだろうか。古代から連綿とつづくつながりのなかで自分の順番を生きているだけなのだが、なぜ苦しさばかりの生があるのだろう。
しかし、死にたいと語る人を死なせてはいけないのかもしれない。とにかく自分はここにいるから、と、そう伝えつづけてあげられるのかもしれない。わからない。でも、人が人に与えうるエネルギーみなもと、その大きさは、もらったことがある人になら、わかるはずだ。とも思う。
先日、仕事に関してわたしが少々苦しい思いをしたことがあり、それを仲間に伝えてみた。すると、みんな、わたし以上に怒って、やるんなら一緒にやってやると、これはもう絶対に間違っていると言ってくれた。いまだふとした瞬間に自己責任論に絡め取られてしまうのだけれど、それを真っ向から否定してくれる人がいるというのは本当に頼もしいものだ。相談に応じているときには、話すだけで解決のための行動にいたらないことにいらだちを感じることもあったが、本当に人は、わかってくれる人の存在を感じることが、もっとも大きな救いになるのだなあと再確認。そういう人さえいてくれれば、あとはたいした問題じゃないような気持ちにさえしてもらえたりするわけだ。
冒頭の家族は、お金には困っていなかっただろうか。息子さんと同じ病気を抱えるご家族とのつながりはあっただろうか。お友達は家族の外に誰かいただろうか。などと考えてみる。
団交とCafe☆Lavanderia
申し入れは前回経験したが、団交は初めて。デビュー。聞きしにまさる、マンガっぷり。
夜はビラまきついでにCafe☆Lavanderiaの緊急イベントへ。二言三言書いておくなら、なぜドイツでは日本人のフリーランスにさえ社会保障があるのかということと、わたしたちは次の表現を探しているということかな。
ここ2日間でいちばん驚いたのは、弟に彼女ができたこと。人間嫌いで部下ができれば転職し、女の子が寄れば面倒くさがって逃げていたのが、毎週土曜日にはデートに出かけ、会社に弁当のおむすびを毎日持参し、おすすめの店のパンやケーキを住んでいる実家に持ち帰っているんだとか。。
政権と一緒にいろんな価値観がひっくり返ったことを日々実感。。
三里塚ワンパック野菜収穫祭
不眠気味にほぼ徹夜にて、千葉県成田の三里塚ワンパック野菜収穫祭へ。
入場料さえ支払えば、おいしいベジメインフードやハーブティー、お酒が思う存分おなかに。しかも、ライブあり、宝探しあり、卵の収穫ありと、とても楽しい場でした。
今後の野菜市などの準備のためにも、多くの方と交流でき、文字通り「実り多い」収穫祭でした。
いんでぃTVアップもお楽しみに。
その後、地元の友人などとも合流し、さまざまに語り合い。
いまはとにかく、人とつながってさえいればなんとかなります。みんな集まれ。
写真は実家のウサギと、中古楽器店にて発見した、アコーディオンやバンドネオンに似たイタリアの楽器です。なんだっけ? 深みのある音色でした。
☆★☆映像監督デビューしました★☆★
なんちゃって。
みなさんの本棚にも、きっと「傾向」があるはず。 でも、この作品には誤りがあり、『僕はどうやってバカになったか 』は疑問形ではないし 村上春樹のやつは長いタイトルで、実は疑問形だったとアップロー ドしながらみていて気づきました。。 オチになってないよ。。
人の役に立つ山師
今年の年初の目標に「人の役に立つ山師になる」なんてことを掲げていた際には、「山師」の具体的なイメージをもたなかった。
それが、最近になって、徐々にイメージできてきた。そのために必要なものがなんであるかが。
1つ目には、「はったり」。山師ですからね。忍者はったりくん。嗚呼、だじゃればかりが浮かんでは消えていく。これはまぁ、元来大言壮語の病を抱えているので、素質はあるとして、そのためには実際、影の努力と実績とが必要であると常々考えている。この努力ってやつが食わせもん?で、苦手分野なのだが。ただし、「期待される素質」みたいなものにつながるはったりはやっぱり重要。がっかりされるほうが得意ですけれど。期待されるのも好きではないわけだけれどね。まあ、人に育てたいとはどうやら思われやすく、何かをたくされやすかったりはする。未熟さやアラが目立つからだろうけど、これはきっと、贈り物なのだから、大切にしたほうがいいんだろう。
で、努力が苦手なため、2つ目に必要なもの、それは、「ネットワーク」。おかげさまで、周囲に助けられて今がある。だから今、何か相談などを持ちかけられたときに、具体的に紹介したり相談したりできる先がある。本当にありがたいことである。
そして3つ目に、「山をはるためのターゲット」。これがないと、山師になれない。これを今、つきつめているところ、なのかな。
「人の役に立つ」なんてのはたいそうなアレではなくって、これはよく例に出すのだが、幼少期にいとこの中で父方でも母方でも一番の年長であったわたしは、いとこどもを集めて、遊びを考えて、ぎゃんぎゃん遊ぶのが大好きだった。すると、帰り際に、いとこどもは、「帰ってほしくない」と泣き出すのだ。これが、しびれるほどの喜びであって、それから30年を経て今もなお、「帰ってほしくない」と泣いてくれる人を探し求めてさまよっているのだと思う。まあ、そんな人はいないわけだが。
だから、「人の役に立つ」というか、まあ、楽しんで、喜んでほしいのだと思う。一緒に楽しみ、喜びたいのだと。
これがなかったら、孤独癖一辺倒の人間になっていただろう。なのでまあ、お気軽になんかご相談とかください。現在、1つひとつあたってます。わたしは非力ですが、周囲には腕のいい山師をとりそろえております。
とまあ、10月も終盤にさしかかり、ふと考えたわけである。なんか急に、自分のなかで、エネルギーのバランスが変わってきた。たぶん、破滅型躁鬱気質なので、急に、鬱気味から躁気味へと反転したのだろう。これは大変あぶないので、気をつけなければならない。
ちなみに、ゲバラ映画を今年だか観た折、革命家の資質とは、「愛されること」ではないかと考えたことも思い出した。愛される素質。そして、深く広く愛する素質。こっちはほしいね。革命家なんてたいそうなものを目指していないわけだが。プチ革命家、てのはどうだろう? 日々、小さな壁を壊しつづける人。これはむしろものすごい実力者を指すのかもしれない。
おお、寝なばこの日が吹っ飛ぶ。人を待っていたわけでなく、仕事をしていただけなのだが↓
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな 赤染衛門