「生きづらさ」

 「生きづらさ」という言葉が浸透したことはよいことだと思うが、表現が一般化されすぎると、こういってしまえばわかったような気になってしまうものだ。
 だが、本当は、「生きづらさ」が煮詰まってどうしようもなくなってしまえば、こんなことにもなるのだと、65歳の妻を殺害した夫についての報道を読んで思った。この妻は本人に頼まれて筋萎性側索硬化症(ALS)の長男を殺害して執行猶予つきの有罪判決を受けていたようで、この妻もまた夫に同様のことを懇願した。そして2人は心中を考えたが夫は逮捕・送検され、「もう少し自分が妻を励ませばよかった」と語っているという。


 「生きづらさ」に苦しんでも死ぬのも苦しいので、消えてしまいたいと思うと語る多くの人に会ってきた。わたしもまた10代の頃、「こいつを殺して自分も死ぬ」という決意は小さなきっかけさえあれば実行しただろうと考えてきた。それは、ただ重たい話を互いにできるほどの限られた特別の友情だとか、馬鹿話を延々とつづけられる友情だとか、集中できるまったく別の行動・行為などによって救われてきたのだ。


 ALSの有病率は10万人に5人程度で、難病に指定されており、発症後3〜5年で半数が死に至るようだ。


 それでも人はそのときまで生き、息子を殺害してなお母は生き、妻を殺してなお夫は生きなければならない、それはいったいなぜなんだろう。それとも死んでもいいのだろうか。古代から連綿とつづくつながりのなかで自分の順番を生きているだけなのだが、なぜ苦しさばかりの生があるのだろう。
 しかし、死にたいと語る人を死なせてはいけないのかもしれない。とにかく自分はここにいるから、と、そう伝えつづけてあげられるのかもしれない。わからない。でも、人が人に与えうるエネルギーみなもと、その大きさは、もらったことがある人になら、わかるはずだ。とも思う。


 先日、仕事に関してわたしが少々苦しい思いをしたことがあり、それを仲間に伝えてみた。すると、みんな、わたし以上に怒って、やるんなら一緒にやってやると、これはもう絶対に間違っていると言ってくれた。いまだふとした瞬間に自己責任論に絡め取られてしまうのだけれど、それを真っ向から否定してくれる人がいるというのは本当に頼もしいものだ。相談に応じているときには、話すだけで解決のための行動にいたらないことにいらだちを感じることもあったが、本当に人は、わかってくれる人の存在を感じることが、もっとも大きな救いになるのだなあと再確認。そういう人さえいてくれれば、あとはたいした問題じゃないような気持ちにさえしてもらえたりするわけだ。


 冒頭の家族は、お金には困っていなかっただろうか。息子さんと同じ病気を抱えるご家族とのつながりはあっただろうか。お友達は家族の外に誰かいただろうか。などと考えてみる。