怒りと感動の活用法

 今日もつらつら。もしもしも、お時間ございましたら、ご意見やあなたの体験、感想等お聞かせくださいね。


 昨日は腐れ縁の悪友の結婚パーティーに。蕎麦の居酒屋ですけど。で、新郎であるところの方は原発関連の社会活動をしているそうで、最近のつながりやすさを実感しているあたしとしては、「かならずどこかでまたお会いしますよ」と。ライヴ会場なんかでも、よくお会いするのです。
 で、やはりママになった友人たちは命をあずかるたくましき聖者なので、再会すると感心します。あたしは自己中心的に好き勝手に生きているので、耳に痛い話も。だけどまあ理解してもらうのは難しいんだろうな。何かを強制されることはないけどさ。あたしだって、お母さんに説教される子どもの気持ちのほうがよっぽど理解できるからなぁ。たとえになっているかはわからないけれど、煙草も1,000円になるくらいじゃやめらんないだろうからなぁ。喫煙者として心得ているマナーとかも人に理解してもらうのって難しいから「禁煙ファシズム」とか感じるわけで。とかなんとか無意味にぐるぐる。


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 前回のエントリに加えて、あたしが社会活動に関心をもつようになったことは、出会った男性陣からの影響も大きいだろうなと思い出しました。年収100万円未満でボランティアや学生運動、そこからさらに社会運動をつづけている人、家族に対して特殊な感情や問題を抱えている人、などなど。やはり現代日本において社会に対して疑問をもちやすいポジションであったことと、彼らの繊細な感受性によるものでしょうか。で、そう遠くない過去に「なぜ君は社会運動に参加しないのか」と問われ、「その活動のすべてに共感できる団体などない」とこたえていたあたしが「大同小異」とくりかえしているわけですね。なぜか互いに泣きながら、思想と信条について語り合ったりとかね。だから、「社会社会いいだす」あたしのような人に反感をもつ人の気持ちはわかりますし、変化をおそれる思いもわかるような気がします。だけど、いかに互いに耐えて対話をつづけることが大切であるかも実感しているのです。どうしても自分より深く理解している人の考えは見えづらく、認識が浅いと受け取ってしまう人の言葉を薄っぺらに感じてしまう、仕事でもなんでもそういったものであるような気もします。だから、関心が高い人のおっしゃることがうまく理解できなかったり、関心があまり深くない方の言葉の定義を一面的に感じたり、知識の浅さや視野の狭さや論理のすりかえに辟易したり。それは互いにあったりするものでしょう。それでもあらゆる人、100年後、1000年後の日本や世界や地球のためによりよい選択をつづけるために何らかの役に立ちたいと思うからこそ、一緒に乗り越えていかなければいけないのですよね。



 ところでG8反対行動がらみや釜ヶ崎あたりで多くの人が逮捕されているようですね。安易な表現で全体を悪者扱いするマスコミのやりかたにはさらなる不安をおぼえます。でも、あたしたちは、詳細や真実を見極め、判断して、無理は無理だから無理ない範囲で行動すべきです。まずはみなさんに問いかけたい。「G8ってなんですか?」「さまざまな運動に参加している人は、それぞれどういった気持ちや考えで行動しているのでしょうか?」「適切な報道をしているのはどこの誰ですか?」「日本以外の人はどのように考えているのでしょうか?」一緒に考えましょう。いろんなところでいろんな人の意見をバランスよく聞かせていただくことでも、だんだんといろんなことが見えやすくなるはずです。個人的には基本的に完全非暴力主義ですけれど。つけこまれないために。特に、エネルギーがあまっている「精力絶倫ニンゲン」なあなたもあたしも、それを社会に還元するのがエコ活用。常に頭ンなかの理想を体現する完璧なニンゲンなんていないので、あなたもあたしも自分や他人にがっかりしないで大丈夫。たぶん。


 たとえば最近の「みてみぬふりしないシンプルで他愛ないエピソード」を披露してみましょう。電車に乗ったら床に珈琲が広がっていて、探すと珈琲缶が転がっていました。そこで、缶を拾って、とりあえず倒れない場所を探しましたが、中央線新型車輌にそのような場所はありません。困っていると、見知らぬパッセンジャーが「そもそもその缶をそこらに置くのはいけないんじゃないのか」といわれ、「実はあたしのものではなく拾ったのだけれど。。でもまあこの袋の中身を出して持ち歩けばいいか」と袋の中身を出したら同行の友人がその中身を入れるためにクリアファイルをくれた。
 そんなことをやっていたら、前出のパッセンジャーが「じゃあ僕は次で降りるので、もって捨てますよ」とおっしゃる。「でも、負担じゃないですか?」「いや」というやりとりののち、結局お願いしてしまった。一緒にいた友人はあたしのせいにされた瞬間に怒りをもって行く末を見守っていたらしいが、あたしは1人で解決しようとすると大変でも、ともに動けば簡単なことになるってことを確認できたことがうれしかった。その他のパッセンジャーはみんな終始みてみぬふりだったからこそ。バカでも自己満足でもいいじゃん。よかったじゃんニンゲンを少し好きになれたじゃん。ねぇ。


 まああとは、マスコミ側に参加する立場であるからこそ、チャンスは最大限生かしながら、少しずつでもいい方向へ行けるための動きをしつづけたい。とゆうのと、ここまでの内容をまとめるなら、ある種のレッテルを貼ることでそこを迫害しやすくなるシステム、都会のみてみぬふりシンドロームディスコミュニケーション(とゆうかコミュニケーションに対し、保身からくるよろしくない諦念)には気をつけましょう。と。個人的にはむしろ、「弱者」とゆうレッテルを貼られている人に対して無条件に愛を注ぎたがる病、ところが実際にあんまり弱者でないことがわかるとがっかりするとゆうおそろしい病、お節介病のほうが厄介ですが。最近はポジティブな包容力に甘えることのほうに惹かれるようになったので、だいぶ回復傾向にあるのかも。なんて。


meantime


昼下りの情事 (1957)

【監督】ビリー・ワイルダー
【出演】オードリー・ヘップバーン / ゲイリー・クーパー / モーリス・シュヴァリエ / ジョン・マッギーヴァー / ヴァン・ドード


★★★★ [80点]「恋愛はすべてを凌駕する(こともあるかもしれない)」

 ビリー・ワイルダーは「アパートの鍵貸します」を、オードリー・ヘプバーンは「ローマの休日」などを観ています。この作品は先ほどBSの放送で観ました。

 気の利いた台詞が多く、観ているうちにキラキラと輝くオードリーに惹かれはじめます。そして、恋愛How toのつもりで観はじめ、妄想で嘘をつくような恋愛をしてみたくなり。そのうち、家族愛に重心がうつるかと思いきや、ラストシーンではやはり恋愛がすべてを凌駕するという、そんな作品。アリアーヌが私立探偵である父親が棚にしまっている資料を基に過去の男について語り、それを録音するなど、興味深い。

 「恋愛は幻想でしかない」とか「(仕事以外で)忙しいから恋愛はおあずけ」とか公言して憚らぬ昨今ではあったが、これは恋愛のキラキラした面を思い出させてくれた作品です。


Posted by lotus.eater on 2008/07/01 with 映画生活