ある日の惨殺

 つきあいの長い友人とは互いに根本的に受け入れあっている感覚があるうえでマナーは守っておこうみたいな感じがあって、もしもある晴れた日に呼び出された公園で彼女に突然刺されても、あたしはまあなんかしゃあないなとおもえるんではないかとずっとゆっている。


 30代も半ばになって、少なくともあたしはなにかのために生きてるってゆうんじゃないなあなんのために生きてるわけでもないなあとか考える。


 あまり知らない人と話しているとその人のなかにでっかい宇宙が広がっているような気がしたりしてとても気持ちがよく、だけどそのうちにその宇宙は急速にしぼむ。互いに膨張しているはずの宇宙がみえなくなってく。


 あの宇宙はどこにいったのだろうと空を仰ぐ。そのうちに雲行きがあやしくなってぽつりぽつりと雨が降り出す。その場に立ちすくむ。家がどこかもわからなくなった。まあ帰りたいわけでもないし。


 とりあえずそのままガードに沿い、次の駅に向かって歩き出す。けれど駅に着いたからとて電車に乗りたいわけでもなかった。ああ、困った。もしくはそんなに困ってない。誰にほめてもらいたいわけでもない。なぜ子どもの頃、一生懸命生きることを自分に課したのだろう。今すぐ、予想だにできないことをしたいたとえば始発で遠くへ行くための準備をするとかそんなのくだらない。


 もし日本が島国でなかったら、もっと気楽に遠くへ遠くへぐんぐん遠くへと行っただろうか。読む本の順番を決めた瞬間に読みたくなくなるのだ。


 すべての予定調和を突き崩したい。たとえば人生設計(ないけど)。DVDの返却(延滞してるけど)。部屋の掃除(本の山が崩れてるけど)。とかまた書いてることが予定調和的でうんざりする。ああ、うんざりだ、もう、うんざりだ、とまた予定調和。


 朝起きたら別の動物になっている可能性はゼロだろう。最大の変化・変身はなんだろう。それはもっともありえなさそうな選択とゆうことだろうかそうすると明日結婚か娼婦、晴れ時々殺人(読んでないけど)。あまりにいずれも凡庸、想像力の完全なる欠如もしくはむしろ救いがたい中途半端な欠如とか。特別な悩みもなくなってあらゆるドラマの終焉。ゴーン、鐘が鳴る。なんの鐘だよおい。まともなかたちでなにかをせいじつにかんせいさせるなんてだれがきめたのそのせいでなにもかもがつまらん。先日、田中登『(秘)色情めす市場』を3度目として観たのだけれど彼女がとてもよいのは軽々しく「もっともらしい」言葉を口にしないところだから「うちもああやったんや、実夫(さねお)もああやったんや」とゆう台詞はいらないと思った。大好きな作品です。


 今日から「しゃあない教」に入信ス。部屋の天井を眺めながら。