「誰か 味見をしてみな 踊りたい」

 過労になるたびに親知らずが痛くなると、打ち合わせついでに話したら、それは根拠のあることだといわれた。
 いちばん大事な歯は犬歯で、神経が上のほうまで通っている。で、次に大事なのが臼歯で、各4本の神経とつながっているんだとか。で、親知らずもたぶん過労になると、触れる神経が過敏になるのだろうといわれた。だもんだから、多忙のピークを過ぎるたびに、わたしは親知らずを抜いている。


 先日、野菜市でみていただいた占いでも、また、周囲のアドバイスによっても、どうやらわたしはこれから2年のあいだに、いろんな意味で「絞り込み」をすべきであるらしい。たしかに風呂敷広げすぎた。
 わたしがほしい言葉は、「愛してる」だとか「好き」だとかではなく、「もうやらなくていいよ」とか「一緒にやりたい」とか「あとは任せて!」なんだとおもう今日この頃。評価があったうえでの。疲れているのかもしれない。


 (再び)先日、深夜、近所で、黒いダウンジャケットを着てスクーターに乗った2人の青年?が、下り方向をみて、路上に倒れ込んだ。すると、もう1人、同様の格好をした青年が現れた。どうやらこれから3人でどこかに行くらしい。ああ、なんかいいなぁ、とおもった。


 昔、そう、あれは最初の会社を2年半足らずで退職した際、同期のデザイナーがくれた長い手紙の最後に、「これからもできるだけ近くにいようね」。うれしかった。


 さらに大昔、あれは中学卒業時、「なんか字、変わったね、とか悲しいから、手紙とか書くね」といわれた。その後何度か交流したが、このわたしのあこがれだった同級生とは結局、疎遠になってしまった。


 しばらく前。下書きにとっていた内容。
恐山の院代、南直哉さんのブログより

思うに、仏教は(仏教を含む)あらゆる立場や考えの相対性を認めた上で、「絶対確実な根拠」を持たぬまま、ある一つの立場(仏教者なら無常と無我の考え)を選ぶべきだと、勧めているのです。この決断(私に言わせれば、賭け=「信」)こそが、ニヒリズムの向こう側に出る営為でしょう。


 ところでわたしが賭けている立場、ではないかもしれないが、の一つに「似たような生き方をしていれば、また会える」という再会夢想があって、先日、わたしはたぶん2〜3年ぶりくらいでとある人に再会した。「共通の知人がいっぱいいるから、絶対、近いうちに会うだろうと思ってたよ」と言ったら、その人は、わたしの記憶のなか以上におずおずと、小さな声で、たどたどしくしゃべりながら、当時と同じ名でわたしを呼んだ。わたしは呼べなかったが、次の機会が与えられれば、呼んでみようかなとも思う。まったくあたらしく、しょたいめんどうしとしてさいかいしているはずだ。きっとあちらにしてみれば、記憶のなか以上にわたしは大きな声で、図々しく、でたらめに攻めてきたって感じだっただろう。わたしはいま、すんでいるところも、まいにちも、まったくかわりながら、ほとんどおんなじようなことをかんがえています。そして、再会の直前にちょうど、あなたが好きだったバンドのCDをようやく借りられるようになったところだったんです。良心の呵責はあまりありません。そもそも良心などとゆうものはもちあわせておりません。ただ、なんとゆうか、いまがそんなにわるくないとおもってるだけです。それは再会にとってかなしいことかもしれませんが。まあ、さほどよくもないかもしれないきょうこのごろではありますが。


 さらに前、下書きにとっていた内容。なにがあったのだろう。


勝手に受け取った悪意を膨らませて
泣きたいけど泣けない そんな気分


宙が落ちてくればいいなんて
そんな願いならどうせ叶わない


もう二度と戻れない
僕のなかのどこにイノセンスはあるの?


 わたしの好きな映画の特徴を2つだけあげる。

  1. たとえ一瞬の出会いだとしても、それがその人を深いところで支えつづける。
  2. 感情がこみあげて、爆発する。


今年も残すところ1日。「秘密の青い小箱(c.あがた森魚さん)」大放出?でした。
それでは最後に。