生きることは恥の上塗り

 青色申告を試みたりなどもしていて最近のことを書くことは先延ばしにして、以前打ちなぐって下書き保存にしていたものをアップしておきます。「生きることは恥の上塗り」ならば、どんどん塗っておくか、と。中学生時代に、「やらなくて後悔するより、やって後悔するタイプだよね」といわれたことなど思い出しつつ。裏目に出ることのほうが多いけどさ。


 おしごとのあいまのきぶんてんかんに、とおもったらながくなってしまった。


 わたしは車谷長吉っつあんを愛する1人であるが、俗物であるところのわたしなどとゆうものを見つめはじめると底なし沼にずぶずぶと沈むようになる。彼は、屍体も骨もゴミとして捨てろという旨の遺書を書いているそうだ。
 では、ゴミであるところのわたしが、ひとさまのさまたげにならないようにいきるにはどうしたらよいのであろう。
 世界について考えていると、人はなんのために生きるかとゆう哲学的命題にいたらざるをえない。最近わたしは、「死ぬのが痛くて大変だから」ではないかと考えはじめた。
 死ぬのが痛くて大変だからいかされつづけているわたし、俗物。


 生物は集団でいきるほうがとくをする。だからひとは、ひとによろこばれることをいきがいとする。それはみずからのいのちとみずからのしゅのためになる。ちきゅうのぜつめつしゅはふようだからきえたのではなく、ひとにけされたものいがいはかんきょうのへんかにたいおうできないからきえた。のだとすれば、ひとがみなある程度ずつ俗物であることは、かんきょうにてきおうするためなのかもしれない。
 でもわたしはひとりのにんげんとして、みずからのいしでいきたいともおもってしまう。みずからのいしでしにたいとも。まだしなないけど。


 イデオロギー的なことを最近よくきかれとある方に説明していたら、「キーワードは助け合いでは?」とゆわれた。とりあえずすべてのことが助け合いにつながるかつながらないかで判断してみようかなと思った。だけど個人的には人に甘えるのが下手で、甘えられるのは好きじゃなくて、孤独癖もある。でも、強がる人がいちばん弱いのだということは身をもってしってる。このへんはまあ美学みたいなもん。いっぽうてきにたすけたいはんいでたすけたいものをたすけるなんてどうなんだろう。たすけることができたらそれだけですごいことだけれど。
 人の強さとは、人を頼れるということなのではないかと考えている。なんだか自分はものすごくちっぽけだ。しってたけど。
 弱い人が好きなの?ときかれたことがある。そのときわたしは人の弱さが好きなのだとこたえたようにおもう。だけど弱さは、周囲を苦しめることがある。人を頼れるということは、相手を信じられるということだ。なぜわたしは人を信じられないのか。わからない。かたくななしこうかいろにたいし、このままでは死んじゃうんではと心配されたことがある。でもしにゃあしない。でもでも信じるには意思の意を含む用法もありますよね。信じると決める。そうだ、わたしが、だ。