仕事三昧。

 仕事のことをずっと考えてしまい、眠れない。


 あたしが大切だと思うのは、エンドユーザーのことを考えて、伝えたいことを考えて、それを形にすること。ブラッシュアップしつづけて、妥協せず、仕上げること。


 自分も含め、制作スタッフに必要とされることというのはいろいろある。知識・情報・経験・礼儀・技術・感性・表現力・好奇心・向上心・理解力。。それらをもっていればいるほど相手を安心させる。自信に満ち、責任感が強くなり、意識が高くなる。そのためには結局、好きな仕事をしていなければならず、努力を重ねなければならない。かげで汗をかきつづけなければならない。好きなことを仕事にしていれば、いいわけが少なくなり、努力が苦でなくなる。好きでないことをするほど、いいわけしながら現状に甘んじるようになる。努力がすべてとは思わないけれど。


 例えば最近尊敬するスタッフ数名を例に挙げると、質の向上のために労を惜しまなかったり、さまざまなイレギュラーな事柄にもスムーズに対応してくれたり、いろんなことを予測して準備をしてくれたり、気にかけつづけてくれたり、信頼を言葉で表現してくれたりといった人が存在する。そう、やっぱり信頼関係なのである。


 あたしは制作というものはできあがった制作物がすべてだと思っていて、そのための条件などは本来はいいわけにならないと考えている(いいわけするけどさ)。で、結局、信頼関係を構築できるスタッフとだけ組みつづけるようになる。そこでまた自分のスキルが上がると、さらに上のレベルの人との交流が生まれて、次の仕事にチャレンジする機会にめぐまれたりする。スキルが不足していても、最大限の努力をしてくれているとわかれば、それはもうあたしも全力で応援する。


 人生の多くの部分を仕事に割くわけであり、そこで信頼関係が生まれたり評価されたりするわけである。仕事というのがピンとこなければ、うぅむ、「生業」とか「営み」とかさ、まあ何でもいいんだけど。


 で、ここにきて次々とこの生業が動き出した。例えば恋愛が成就すると過去の自分のすべてが肯定されたような気になりませんか? それと同様、興味深い仕事が舞い込むと、過去の自分の仕事への関わり方のすべてとはいわなくてもいくぶんかが肯定されたような気持ちになったりするものです。他人との関係を築けるものというのは、何でもとても興味深く感じるものです。世界が広がっていくことを実感します。


 とある中医学の大家は、治療するうちに患者が自分の分身に思えてきた。そのうち、道行く人も誰も彼も自分の分身に思えてきたそうです。「自分」という範囲はこの身体という名の容器におさまるものでなく、人と人の間にもあり、また、宇宙までも広がっていくものであるようです。ならば、より心地よくあることのできる関係に包まれながら、あたしらしきところを生きたいなと、そう思うわけです。


 最後に。スタッフ間の努力のバランスがよくない場合、そこに価値を置く度合いが違うという可能性が大いにあることに今、気づいた。そうか、これが「価値観の相違」ってゆわれるすれ違いの原因のあれか。。とりあえず仕事に関しては、この価値観の度合いは1度組めばだいたいわかるな。このバランスがうまくいくと、互いの玄関先を掃き合うような感じでとてもうまくいくのよね。あなたがそれをしてくださるならあたしはこれをしましょう、得意なところを分担しましょうというのが積み重なって。


 最後の最後に。で、まあ、好きなことを仕事に、と始めたわけですが、うちのおかんを考えると、彼女は何だって、事務だろうが便所掃除だろうが命がけでやるわけで、だから個々の資質かな、と。うちの死んだおとんは設計とか図面の作図みたいなのをやっていたのだと思うのだけど、おかんいわく過労死で、お持ち帰りで仕事をしていたし、週末も仕事、もしくはぶっ倒れて寝てた。少なくとも、この血をひいていることはたしかだ。いやあたしは死ぬまではもちろんそんなにとことんはやらないしできないし、文句も多いけど。命がけで働く人生をどう思うかは個々の価値観だが、あたしは何でもいいから何かを一生懸命やる人生とゆうのは悪くないような気はする。それが自己のプライドとアイデンティティをかけて一国を戦争に突き進めようとする、とかはだいぶ違う気がするけど。一生懸命何かをすると感情が動く。熱く誰かと何かを語り合う。語らわなくってもいいんだけど、それらは、とっても、生きてるって感じだ。今、一緒に組んでいるフォトグラファーは、仕事の合間に「精神統一をしてくる」とかいって喫煙所を出て行った。なんだかとってもいい感じだ。