僕たちの好きだった格差とワープアの話。&「黒い〜」「でんき〜」

 今日は週末であるにもかかわらずめずらしく家におり、また関心のある、医療に関する番組、「もしも」とかゆう極限体験の番組、エコライフに関する番組などを観ていた。
 そして先ほどには、mixiの格差やワープアに関するコミュで努力について盛り上がっていたのでそれを読んでいた。
 あたし自身は以前までにも繰り返し書いているとおりもともとはお金を「憎んで」きた。実家にいたおり、小遣いはもちろんなかった。だが、高校生になると昼食・部活後のドリンク代に計200〜500円をもらっていたので、それをコツコツと貯金しては、暑い夏場にドリンクを飲んだりしていた。私立の高校に単願で行きたい、大学を受けたい、補欠で合格といわれていたのに不合格に結果としてなったので一浪させてほしい……と親に伝えるたびに、母親は「そんなお金どこから出るのよ!」と叫んでは泣いた。父親を早くに亡くしてその後にうちに転がりこんできた男性が20年ほど働かなかったので、家計は困窮していた(今はがんばってます)。しかし、実はもともとの親父の収入は当時にしては悪くなく、母親はエアコンやこたつや給湯器があっても極力使わない主義だったのと、体の弱かった親父は高卒であった自分の給料が不等であると考えており、子どもたちは大学に行かせようと貯金を残してくれていた。
 まあそんなこんなで結局は私立高校に行き、一浪してバイトの勤労学生となったのだ(そのかわり弟は公立高校へ行き、推薦で入った大学を中退して肉体労働に就いた)。卒業すると就職超氷河期といわれる時代であり、同級生のほとんどは就職活動さえしなかった。だが、あたしは家を出たい一心でそれなりに活動し、京都本社で全国に支店のあった広告代理店・制作会社に就職した。そしてその後転職を重ね、2001年にフリーランスに。
 つまり個人的には、ネガティブな感情やマイナスの環境のおかげでまあ今日まで生きながらえたと思っていて、これは不幸でもありある種の幸運でもあった(たくましく生きるための?)。


 あたしが今までに出会った低所得の友人たちの多くは(あたしもかなりの低所得時代もあったし今もあんまり働いてませんが)、労働環境や労働条件の劣悪さについて、異口同音にあたしに教えてくれた。実際にその過酷さは、相当なものだと感じた。いっぽう彼ら、彼女らは、親が健在で、いざとなったら団塊世代等で現在も現役でがんばる親が食べさせてくれる状況が整いやすい。また、あたしと同様人づきあいがあまり得意ではなく、好きなこと以外はやりたくないという気持ちで生きている。やりたくないことをするくらいならば、極限の質素な生活をするほうを選ぶ。将来について不安はあるが切迫はしていないので、あたしのほうがむしろ(自分のことはさておき)彼ら彼女らの両親が元気でなくなってしまったときのことを心配したりしている。まあ、もちろん本人たちはあたし以上にいろいろ考えているであろうし、とりあえず6〜7名を思い浮かべて書いている。
 そんな彼らはお金の話をあたしにするので、自分も余裕はなかったけれど、ごちそうしたり、仕事をつくって経験の相場より上のお金を払ったりした。にもかかわらず、彼らからあまり感謝の言葉が得られたことも、感謝されていると感じたこともない。彼ら彼女らの多くは(もちろん全員ではないが)自分のお金は大切にするが、人のお金をあまり大切にしない。施されることに慣れている。あたしの友人が彼ら好みの店に誘ってくれているのに「金を使いたくない、安くない店はやだ」などといわれると、「じゃああたしが全額出してやるよ!」と怒鳴りたくなる。あたしは自己満足さえ得られず、彼らを助けたことにもならず、むなしさでいっぱいになる(それでも金の無心の連絡とかがきつづけたりするが、いちおうあたしのなかで何が彼ら彼女らのためになるのかを考えて返事をしてきたつもりではある)。自分としては彼ら彼女らに対して感謝の意を極力表してきたつもりではあったのだ。
 そこで、さまざまに具体案を提示したりするが、それらもご想像どおり、受け入れられることはない。結局そうなってくると、互いが心地よい距離を探ることになることが悲しかった。
 また、彼ら彼女らの努力不足を感じてしまったりしもするし、人に仕事を頼むときにあたしが重視するポイントというのも結局「一生懸命やってくれること」であったりする。


 そして、「オラオラ、これがほしいんだろ?」とほっぺを札束でぺたぺたとたたき、その後にばあっと宙に放り投げ、「ざまあみろ」とつぶやきながらほくそ笑むことを繰り返し夢みてきた。


 今あたしは、お金の呪縛から多少解き放たれ、キャリアを積むほどに仕事に対して我が儘になっている。できるだけやりたいことをやりたいと。で、社会問題への関心が高まるほどに、ここまできたらあれもこれもやはり社会問題として考えるべきであると思う。また、もともと好きでなかった「努力」「自己責任」という言葉に強い嫌悪感を抱く。これらは他人がどうこういえるたぐいのものでないと思うからだ。とここでいつも矛盾につきあたる。ああ、ここが難しいのだな、と感じる。「がんばるのがえらい」「努力は報われる」「好きなことを仕事にすべき」うんぬんとゆう美徳に対する「教え」の根深さよ。


 そして前述の「もしも」の番組などを観ても、生物の多様性は地球と生命のためにあるものであって、たとえば「努力する人」と「そこに甘えて努力しない人」とが現れるのは、むしろ生物多様性の実験のために必要なのだろう、などとまた今日も考える。みんながおんなじ動き・考えをもってしまってその種に何かがあったら全滅してしまうだろう。だから、バランスよく、いろんな人がぐちゃぐちゃと存在するのだ。だから、人、生物、地球、100年後、1000年後の心地よさのために、共存すべきなのだ、と。とか頭では思うんだけどね。だけどいろんな問題について考えていると、保身の文脈を感じると、怒りがあたしのなかでふつふつするんだよな。。


 ところであたしが仕事に対してもっとも惹かれる人の姿勢とゆうものとは、好きで好きでしょうがないことにただ没頭して不満のかけらもない、とゆうやつ。あとは、不満のかたまりだけど、結局がんばっちゃう人。でもでも、人は生きてるだけで、王冠をかぶせてあげなくっちゃいけない、って最近は思います。自分も含め。若い世代の運動の盛り上がりはたぶん、本人てのもあるだろうけど、周囲に苦しむ人がいるなあとゆう実感をもつ人が増えてきた、てのがあるんだろうな。じゃあ彼らのために何ができるかってゆうと、やっぱりこの彼らを苦しめる「努力」「自己責任」とゆう言葉を借りて発せられる無関心をどうにかして、あとはやっぱりシステムをどうにかするってことなんだろな。


 彼らはもう十分に自分を責めてる。そしてあたしはもちろん、あなたにとっても人ごとじゃない。否、たとい人ごとだったとして「誰かのためにがんばるのがえらい」「誰かのための努力は報われる」、そう信じたい。でも、誰もが自分や家族や仕事仲間を守ることで精一杯になりがちなのは、そうゆう苦しい時代なのかしら。。だけどだけど、コミュニケーションによって互いに元気を得たりできることはきっとあるわよね。
 あと、20〜30代が60〜70代から学べること、60〜70代が20〜30代を理解して得をすることは互いに多いんではないかと思うことが多い今日この頃。互いを批判する論調もよく目や耳にするけど、向いている方向はおんなじだとあたしは考えている。なにか橋渡しができるとよいなあ。

黒い十人の女黒い十人の女 (1961)

【監督】市川崑
【出演】山本富士子 / 中村玉緒 / 岸田今日子 / 船越英二 / 岸惠子 / 永井智雄 / 大辻伺郎 / 伊丹十三 / クレイジー・キャッツ


★★★★☆ [90点]「横溢するフェティシズム

を感じた。



「雨が降っていたから」「冷房が壊れていたから」「月がきれいだったから」恋におちる、とゆうのがいい。そんなもんだろ。



声も姿も知的で魅力的な岸恵子をはじめとする豪華な女優陣はもちろん(市子、双葉……と役名が連番になっているらしい)、現代の社会機構への言及なども興味深い。


Posted by lotus.eater on 2008/07/06 with 映画生活
でんきくらげでんきくらげ (1959)

【監督】増村保造
【出演】川津祐介 / 西村晃 / 渥美マリ / 根岸明美 / 中原早苗


★★★★ [80点]「「お前は抜け目ないが情けは深い」」

タイトルの捕捉として、「ユラリとからんで ジワリとしめる 男の体に電気が走る!」とのキャッチコピーが、DVD特典予告編内にて使われていた。



『でんきくらげ』シリーズは、あと1本観たらゴール。やっぱり渥美マリはいい。


Posted by lotus.eater on 2008/07/07 with 映画生活