『修羅』とブック・ギルド

昨日は仕事を片づけてから憂さ晴らしに
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修羅

1971年(S46)/松本プロダクション、日本アート・シアター・ギルド/パートカラー/134分

■監督・脚本:松本俊夫/原作:鶴屋南北石沢秀二/撮影:鈴木達夫/美術:朝倉摂 ■出演:中村賀津雄、三条泰子、唐十郎、今福正雄、田村保、観世栄夫、松本克平

惚れた芸者の身請けのために、仇討資金をつぎこんだ赤穂浪人・薩摩源五兵衛。しかし、彼女には夫と子供がいた。絶望の淵にたたされた源五兵衛は…。鶴屋南北狂言『盟三五大切』を前衛映画の旗手・松本俊夫が翻案。血で血を洗う怨念劇を、ストップモーションを使用するなどの斬新な映像処理で展開する。
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を観た。松本俊夫が『薔薇の葬列』につづいてATGと提携制作した劇映画。鶴屋南北狂言の原作がどこまでかがわからないのでぜひこれを確認したい。冒頭では薩摩源五兵衛というダメ男の物語かと思われたが、八右衛門が工面した金を武士の道に使うか女を救って自分のものとするために使うかで長い葛藤。武士の道に使うべきなのにと思いながらみているうちに女と自己のプライドのために使ってほしくなったりと観ているこちらも葛藤。そして予想を絶する究極の屈辱にまみれ、怨念劇が幕を開けるわけだ。ところが、「修羅」は「復讐の修羅」のみならず、「金に心を売り渡したことからはじまる修羅」「家族との幸せを守ろうとしての修羅」と、人の人たる所以、その陰について考えさせられてしまう。そして、予想どおりではあったがあまりに悲劇的なラスト。不条理。終幕後も立ち上がれず。


そこで思うのが、理不尽な浮き世、八右衛門の生き方(死に様)だけが、まことであろうと感じたわけで、さんざん揺さぶられつつも、自分が胸をはっていられる自分、てぇのを大切にしなければちゅうようなことなんであった。パンフレットにも使われていた三五郎の台詞「もうなにも見たくも聞きたくもござんせん。たとえこの世に陽がさそうとも、このうじ虫野郎は闇にはまるばかりでござんす。思えば無駄な一生でござんした。」。重い。鶴屋南北オリジナルが知りたい。源五兵衛が小万の首に向かって自らがどのような心境で決心にいたったかを語る、その場面も重い。彼の決心が間違っていたわけではなかったのだから。阿佐ヶ谷ラピュタはこんな素晴らしいしかも2時間超の映画をさらりと日常的に上映しておるわけで、なんとすばらしいのだろうと思った。『薔薇の葬列』が観たい。


映像の斬新さ、すべてのカットの美しさには目をみはるばかり。過剰なまでに繰り返される三五郎が樽から登場するシーンなど、劇的。


とうとう「ブック・ギルド」も閉店だ。前をひとりで通ったらたいがい立ち寄る数少ない阿佐ヶ谷の店のひとつだった。70%オフ最終セール中で、ほかの客の「売り飛ばしたらいいのでは」というつぶやきに焚きつけられたわけではないが、8冊くらい買ってしまった(1,500円くらい)。店員さんどうし、「ご飯は食べたの?」とかなんとか、最後の祭りでせつなく盛り上がっていた。文芸の割合は低いが寺山修司の掘り出し物がいっぱいあったと思っていた(昨日はすでに彼のものは一冊たりとて残っていなかった)し、学術書やアート系、もちろん漫画も充実した好みの古書店のひとつだった。適正価格のためにセール中以外なかなか手が出せず、同朋多かったかセール期間中はいつも人が多かった。昨日は見たい棚をなかなか見られないほどに混雑していた。斜陽。また、中央線沿線のあかりがひとつ、消える。