「文体」から話を広げすぎたあたしのなぐりがき(もしくはみだれうち

 内田樹さんのブログに文体についてという記事があり。

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だが、文体というのはそれほど軽いものではない。
それは読み手にフィジカルに、ダイレクトに「触れる」ものである。
読み手と書き手の「関係」を瞬間的に決定してしまうものである。
だから、ラカンは『エクリ』の冒頭にこう書いた。
Le style est l’homme( à qui l’on s’adresse).
「文は(宛先の)人なり」
文体は、それがどのような人にどのように差し出されているかをあらわに示す。
書き手が読み手に対してどのような種類の距離感や親疎の感覚や敬意や興味を抱いているかを表すのは文体である。
コンテンツではない。

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 まず、これはインタビューを起こされたものなので、語り口に関してご本人の意図があるわけであるから、この場合には、また、こうした一流の方の文体は、記者や編集者はそれを曲げるべきではないと思う、というところを、本気と書いてマジレンジャーとして、ここに記しておく。著者校、こちらもとにかく口調なり言葉なりは、「名前が明記される人」のものは尊重すべきであると考える。
 あたしは仕事として、編集側とライター側の双方を手がける。そこで、このライター側と編集側という、文章をゼロから作る人と、それをまとめる人という立場でもって、拝読させていただいた。ので、まずライター側として大いに共感した。文体(や口調)が変えられてしまうと、距離感やニュアンスのみならず、意図までも変わってしまう。こうなってくると、まったくあたしのいいたかったあんなことやこんなことがまったく伝わらなくなってしまうではないかと憤ることがよくある。でも、あたしは大した力をいろんな意味でつか相対的につかもたないので、はい、あなたがそうおっしゃるならば、そして、そのように変えろとおっしゃるのであれば、たとえ共感せずとも、そしてあたしにしてみれば変な日本語と思われるところのその表現に変えられようとも、耐えてみせましょうぞと、頭をたれる稲穂ぞと自らをはげましつつ、憤懣やるかたないくらいの思いでキィを打つ手がぷるぷる震えようとも直します。だって、あたし、バカだから。コピーライティング、キャッチを考えるときなんかでも、あたしの提示したコレがとてもスバラシイに決まってるじゃあござんせんかとホントは思ってるからもう口惜しくて腹が立ったりもするわけですけど。カンタンにいっちゃえば、あたしの場合、「オレ至上主義」ですよね。
 いっぽう、編集側のあたしは、いつも口を酸っぱくして唱える「読者至上主義」というものがあって。普段の仕事のなかでは、ライターのあなたはそうしたおつもりでしょうけれど、それじゃああなた、読者にはわからないじゃあないですか、わかりにくいじゃあないですか、だから、こうしたほうがいいに決まってるじゃないですか、なんて思ってるわけです。それはあなたの、おぉ、いい言葉がありました「惟適之安(ゆいてきのあん)」。(とかいって、コレもあたしの場合は「オレ至上主義」だったりして。。)
 そしてさらに、文芸添削の仕事などもしているわけですが、これはもう、ほとんどは夢見るアマチュアですからね、この「オレ至上主義」と「読者至上主義」を振りかざしはじめれば、ほとんどの作品は、全文オレに書きかえさせろと、こうなるわけです(もちろん、やりませんけど)。もちろん第一番目の読者の立場で愛そうととりくみ、多くの作品は共感できますし、まれに名作もありますよ。でも、いやっ、頼むからもうやめてください、と最近マイ・ブーム(死語?)な団鬼六作品風な(↑例文を用いた)サービスをしてまでも哀願したくなるようなはっきりいって駄作、だってあるわけです。
 こうして、砂上の「オレ至上主義」と、(振りかざされるだけの)正義の(建前)「読者至上主義」がせめぎ合い、お仕事の際にはそれによって日々葛藤しているからこそ仕事が成り立つ分裂気質を生かしておりますんです、はい。
 でも、理想としては、お互いが納得するまで意見を交換しあって、誤解を解いて、よりよい、真実を伝えるに近づいた表現なり文体なりを求めていければ、読者にとっても最善であろうと思ったりはするわけです。ムリですけど、ってオイ、これだけだらだらと引っぱっといて、オチはそれかよっ!! いいえ、違います。これから仕事をせねばならんところで具体策をあげますと、身近で信頼のおける人の意見を聞く、というのはよいのではないでせうか。あたしは最近、仕事の鬼なので(アメリカン・ジョークです)、人に仕事を振ったりすることもあるわけですが、そうすると、とてもよろしゅうございます。信頼のおける人に振りさえすれば、二人以上で、より客観的にbetterを求められるからです。ほぅ、なるほど、そうした見方もあるなと思えれば。仕事は信頼し合える人とすることが肝心である、といつもの「愛/理解至上主義(なんじゃそりゃ?!)」と結論づけたところで、じゃあそれが「作品」であったらどうかといえば、これはもうひとり孤独にbetterを求めつづける以外の誰の言葉もいらない気はするから難しいところでございますけれど(結局頑固な「オレ至上主義」)。
 最後にひとこと。人がウン十ウン年かけて到達した文体なり言葉による表現なりてのは、その人にとってとても大切な意味をもつもので、例えば日常的に人と話していても、辞書が異なるというか、もうすべての言葉の定義が異なってしまっているから、そこからじっくりと話さなければ、理解し合うのが難しいことさえある。で、文体に限っていえば、やっぱりこれは姿勢を表すものだから、個人を尊重すべきなのかなぁと考えた。だから、添削や、音声がつく物件などを手がけるときなども、文体を受け入れる意識はもっともつべきだな、と自分にしっかりと言いきかせておいて、いい加減、仕事をはじめねばな。