スキルアップと熱中の効用

 誰かのスキルがあがると、本人が得をし、周囲が得をし、社会が得をする(まあ、正当な評価がなければ、損をすることも多々あるだろうけれど)。誰もお米がつくれなかったら、大好きなご飯が食べられない。おいしいご飯をおなかいっぱい食べたい。おいしいお米をつくれる人のほうがおいしくないお米をつくる人より多少は得をしてほしい。がんばっていたら、もっと得をしてほしいと思ってしまう。


 では、どのようなときにスキルはアップするのか。
 たとえば、モチベーションが高いとき、陰でこつこつやるしかないはめにおちいっているとき、苦しい状況を打破せんとしているとき、壁にぶつかったとき、ほめられたとき。。
「一生懸命がんばれば3カ月でベテランを超えられる」これは、編集をはじめたときにいわれたこと。
「どれだけたくさん仕事のうえで冷や汗をかいたかじゃないかな」これは、カメラマンさんにカメラ上達法をきいたときのお返事。


 スキルがアップするか否かは本人次第であるともいえるし、そもそものモチベーションが上がらないのは環境のせいであるともいえる。だけどまあ個人的には、「苦しんで逃げなかったらスキルはアップする」「苦しまない道を選びつづけることも可能なこともあるけど、スキルはアップしない(器用にはなるけど)」「苦しんで逃げないことで最悪の事態に追い込まれるくらいなら、逃げたほうがいい」ってことくらいはいえそうな気はする(まあ、なかなか逃げるのが下手な気質ではあるのですけれど)。


 で、「モチベーションが上がらないことをしないでよくなるから、どんどんスキルアップをしたほうが得である」「何で人にほめられたいかわからない人は、いろいろやって探すということを、35歳くらいまでは、やってもいいと思う」「それを過ぎると仕事においてまったく新しい何かをはじめることは難しいから、自分をスポンサーにしながら遊びのなかでひそかにスキルを磨くといい」「環境がよくないのは本人のせいではないから、逃げるか、社会運動をするのがいい」てのを結論とする。


と思ったが、苦しんだ人より、あまり苦しまない人のほうが、ねじ曲がってはいない。じゃあ、どっちかを選ぼう。「まっすぐに伸びるか」「大きく広がるか」。どっちも悪くはない、好みの問題だと思う。


 仕事を選ぶ際、以前に比べて最近、諸条件よりも内容の比重を大きくしている。でも、そのせいで苦しいことが多々ある。そうなると、方法・システムについて考えはじめる。個人的にこの回答は、イベントまで含めた「メディア・ミックス」と、既存のシステムからの「逸脱」にあると信じて疑わない。そのための人脈は確保しつつある。まずはセルフ・プロデュースに近い何かで小さく試してみたい。などというようなことばかり、ここ何カ月か考えている。


 先日「カンブリア宮殿」というTV番組で、「朝起きてすべきことがないというのは人をだめにする」という話があった。そうかあ。冒頭の話題に戻るなら、がんばったり工夫したりする人が浮かばれる?しくみをつくりたい。そうなれば、あたしを含めたみんながもっと、朝起きてすべきことを楽しみに思うことができるだろう。


 では、そのなすべきことの対象は、どのようなものが理想であるのか。やはりそれを見つけるべきか否か。


「一生懸命でない自分はいやなんだ」これはいわゆる不良だったけれど当時はダンスに熱中していた元生徒が口にした言葉。


 ちなみにうちの母親は、いかなる最下層の労働においても必要以上に全力投球である。これは金銭面からは損であるが、ものすごく得な性格であると思う。


 以上、深夜の乱れ打ちでした。