脳内麻薬と問題解決

 最近誰にあっても12時間以上とか話し込んでしまい、トークハイ状態になって、なんだかそれなりの交流を経たような経ていないようなわからないけれど貴重な時間を過ごした気になることが多い。

 中学生の頃、家庭科などの授業をさぼり、みんなでベランダや教室で「話し合い」をすることが多くあった。きっかけはささいな当事者同士の誰々ちゃんがうんぬんというトラブルだったりするのだが、町で1つしかない大きな中学校にはヤンキーみたいな子はもちろんエキセントリックな生徒も多く、かくゆう私も当時は精神的に放っておけばいくらでもヤバい状態にあって、そのような場を思春期のみんながほっしていたのかもしれない。個人的には剣道やピアノ、そして何より直接的な友情に救われていたのだが、それこそときには職員室に先生間の問題についてうったえにいって改善がみられたような気がする問題もあった。
 さて、この「話し合い」は、鬱憤のたまった当事者が互いの本音を吐き出し、周囲がそれに意見するという構造をもっていた。そして最後にはなぜか必ず涙を流して抱き合うんである。私は友人の大きな胸の感触を今でも覚えている。

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 さまざまなことがらをきっかけとして社会問題みたいななにかについて考えることが多くなり、頭を整理してそれを書き留めておく場所がほしくなりました。とりあえずもっとも面倒でない方法をとることとし、便宜的に復活。
 何か問題があってその問題に対して何かを主張する人がいるとします。この人を応援する人でなく、異を唱える人にいくつかのパターンがあるとして。1つには主張自体に対して反対意見をもつ。2つめには主張に問題があることを感じる。

 最たる被害者の主張というものは、えてして身勝手なものとして取り上げられることが多い。なぜなら、被害者は身の安全だとかなんだとかを確保しなければならないからなりふりかまっていられないし、そこにある現実をどうにかしなければならないし、うったえるのであれば形式的には自分を苦しめる自分以外の何かに対してうったえるものだから。自分自身が原因であると深く実感できていれば、それは外に対してうったえる必要はないのだ。コンプレックスだとか愚痴だとかそうゆうのも絡んでくるし。

 例えばその主張によっていちばんの悪玉にかかげられるのが金持ち大企業だとする。でも、それを主張している人自身にもある程度お金があると思われる場合、そんなことゆったって同じ穴の狢じゃんとか、お前はどうなんだと言い出す人というのは必ずいる。

 でも、前述のような理由もあって最たる被害者の叫びだけでは届きにくいものだから、必ず被害のど真ん中にいるわけではないけれど、その被害について疑問を呈し、守るべく立ち上がる第三者の力は大きいものなのだ。

 大切なのは、いちおうの姿勢としてだけでも自分を蚊帳の外におかないこと、蚊帳の外に置ききれるならそれはラッキーであっただけであると考えること、そのうえで対話を重視した問題解決をはかることにあると実感している。

 だから、最たる被害者ではないけれど問題を感じる、とゆう理性を保てる立場からの主張がいちばんしやすい。自分が「最たる被害者」みたいな問題の場合、それをうったえることには大きな勇気を必要とするから本当に難しい(勇気がないので)。さらには加害者である場合に自覚もあると開き直るか反省するか後悔するかわすれるかしかないから弁明、情状酌量の余地がある場合には開き直るとか反省したふりをするなどとゆうことが多いと思うのだけれど。自らを本当に苦しめるのが自らであるかぎり、心底省みて行動を修正したり改善したりする必要があるのかもしれないなどと思わないこともない。

 つまり、まず自らや問題の中心をかえりみ、そこに直接的にかかわる「周囲」の問題について考え、そこに間接的にかかわる「社会」の問題について考えるとゆう手順を、賛否両論を考慮したうえでの「対話」を常に重視して問題解決を図る、よりよい選択をつづける、ことが重要なのだろう。これはいかなる大きさの問題を解決する際にも大切なことだ。

 あとは、感情面での解決とゆうのが非常に重要だと思う。それは、冒頭のエピソードに端的に表れていると考える今日この頃である。カタルシスがともなえば、双方が深く癒されるからである。だから極端な話、カタルシスさえ得られれば、とりあえず何らかの被害者も生きつづけることは可能になってゆく。逆にカタルシスが得られなければ、問題の芽が完全につみ取られたことにはならないから、また同様の問題は必ず起こる。まあその場かぎりのカタルシスは、それだけではかなりあぶないんだけどね。