快楽主義

とネットで調べると、いろいろ深い哲学が垣間見られます。
あたしが昨今考えるそれはそこまで深い洞察によるものではありませんが。


あたしは、「不快」の範疇にあるものすべてを
「快」の範疇にもってこようと日々しているような気がするんですね。
「不快」の範疇にある理由は自分と相手であったりなんだり
なんですけど、それをひとつひとつ
「快」の範疇にもってくると。


互いのために、理解(=愛つのがあたしの定義ですが)しあうために
伝える、伝えられる、その際に、互いのことを考える。
これがうまくいっていないとき
あたしはとっても「不快」なわけです。
なにしろ相手はあたしと理解しあう、愛しあう気がなく
自分、自分、なわけですからね。
じゃあ、なんでそうなのか、本当にそうなのか、と。
もしくは、あたしが、あたし、あたし、なのか、と。
もしくは、あたしがまた勝手に我慢の子に成り下がっちゃってるのか、と。
この臨界点を超えた瞬間をしっかりつかまえて
次のステップへ。


コレを解決するうえで、
ああ、山坂越えてわかりあえた、とか、
特に仕事において
あっちはダメだけど、別のこの人はいいな、それに気づけたな
とかあるから、やっぱり困難事例が山積みですが、
誠実に自分らしく向かい合おうと思います。
そう思えないときは、終わらせる。それしかない。


今日の昼間はこう思えなくって
吉祥寺の大中で服とハンドタオルとピアスを買って
大好きな隠れ家的喫茶店くぐつ草に癒してもらいに行きました。
帰宅後に片づけして新聞を読んで寝て起きたら復活。
寝て起きても状況は変わらないけど
気分は変わる、ですね、cavyさん。
それによって、だんだんと状況も変わってきたみたいです。
ありがとう。